上甲晃名誉塾長デイリーメッセージから

2018.01.07 新たな想い

『青年塾』創設以来二十一年。それを引っ張ってきた私は、七十六歳になった。

常識的に言えば、「いかにして幕引きするか」、「どうして次なる体制に移行す

るか」と考えるべき年齢である。

 私は、逆だ。「いかにして、゛志実践の運動゛を力強く広げていき、この国の

未来にお役立ちできるような゛歴史的役割゛を果たせるか」の一点に思いを集中

させている。いわば、歳不相応に、力が入っているのだ。いくつまで生きること

が許されるかは、それこそ、神のみが知るところである。しかし、命ある限り、

この国の未来にいささかでも光明を照らし続けたいとの思いは、日増しに強くな

っている。

 私は今、日本の未来に対して、強い危機感がある。世の中は、好景気に酔って

いる感がある。株価は上がり続け、賃金も上昇傾向、途方もない贅沢が好まれ、

暮らしぶりは良くなっている。しかし、この好景気はどこからきたのか?私達が

営々として努力してきた結果もたらされたものであろうか?どんな努力をした結

果、この好景気があるのか?今、世界的な好景気なのだ。しかも、実態の経済で

はなく、世界的な金余りで、好景気が作られているのである。

 懸命に未来を読めば、日本の先行きに暗雲が垂れ込めていることは、誰でも簡

単に想像が付く。人口がどんどん減る。即ち、経済の基本である市場が縮小して

いく。老人がますます増えて、社会福祉のために財政がひっ迫する危機は間近い。

子供の数が大きく減少して、未来をひらく人が少なくなる。すべてにおいて、゛

下り坂゛の時代は間違いない。

 私達は、いったい、どんな未来を、後に続く人達に贈ろうとしているか?

私達は、自分の時代にすべてを食い尽く、食いつぶそうとしているのではないか。

松下幸之助は、「日本には国としての理念がない。また、国家百年の計もない。

このまま行けば、やがて行き詰まってしまう」との危機感から、松下政経塾を創

設した。私もまた、同様の危機感を引き継いでいるつもりである。お隣の中国

は、゛国家百年の計゛に立って、世界の中心に立つことを国内外に宣言している。

私達の日本は、その日暮らしだ。百年とは言わない。五十年も経たないうちに、

日本は中国に縋りつかなければならないような国に成り下がっている気がしてな

らない。

 

 今こそ、未来に希望と光をもたらす゛志゛を高く生きる時だ。 

 

2017.12.25 清里行き

 今年三月をもって、十六年間務めてきた『夢甲斐塾』の塾長を退任した。それ

以来、すっかり山梨から足が遠のいていた。今日は、『夢甲斐塾』のクリスマス

パーティに招かれて、久しぶりの山梨行きだ。北杜市の清里゛萌木の村゛をめざ

す。今日の会合に、どの程度の人達が集まり、どんな趣向かは何も知らされてい

ない。行ってみての楽しみである。

併せて、明日は、゛萌木の村゛の舩木社長(村長?)に招かれて、同社のスタッフ

のみなさんに話をさせていただくことになっている。昨年の夏、恒例の゛フィー

ルドバレエ゛開催中に、レストラン゛ロック゛が全焼してしまった。それ以後、

奇跡的なスピードで再開にこぎつけたスタッフの努力は、猛烈なものがあったと

聞いている。年末から正月にかけて、きわめて多忙を極めているはずのスタッフ

に話をさせてもらうとなると、自ずと力が入ってくる。人は、逆境によってこそ

育つのだから。

そもそも、『夢甲斐塾』の゛萌木の村゛でのクリスマスパーティは、私が塾長時

代に発案したものである。一時期、゛萌木の村゛の経営状況が、きわめて厳しい

状況に陥ったことがある。社長の舩木上次さんとは古くからのおつきいである。

何とか力になりたいと考えたのが、「大勢で利用する」ことであった。幸い、私

は、『夢甲斐塾』を率いている。一声掛ければ、多くの塾生諸君が集まってくれ

る。

そこで考えたのが、一般のお客さんを対象にしたクリスマスパーティの翌日に、

私達の゛一日遅れのクリスマスパーティ゛を開くことだった。これなら、前日ま

でのすべての装飾を撤去せずに、そのまま使える。様々な出し物も、本来は仕舞

ってしまうところを、もう一日使えばいいだけである。゛萌木の村゛にとっては、

コストが掛からずに、多くの客が集まる会合は、大いに助かると考えてのことだ。

十年近く続けてきた一日遅れのクリスマスパーティも、私が塾長を退任すれば、

止めざるを得ない。今年の夏、゛萌木の村゛を訪ねた時、支配人の木内氏に、

「長い間、゛一日遅れのクリスマスパーティ゛を楽しませてくれました。私が塾

長を辞めたので、今年からはもうやらないと思います。本当にお世話になりまし

た」と挨拶した。

ところが、今年もまた、塾生諸君の発意で「やる」ことになったのだ。私にとっ

ては、まことにうれしいことである。本来なら、「前の塾長の発案で始めたこと

は、新しい塾長の下では止めよう」と考えるのが、普通の組織の理屈である。デ

イリーメッセージを制作しているのは、清里に向かう列車の中だ。到着してから

が楽しみである。   

 

和式            

2016.11.05

 私の目の前に座っているのは、『夢甲斐塾』出身の保坂浩輝君。「今日も、頭

のてっぺんから、足の先まで国産です」と言う。保坂君は、いつも、日本産、と

りわけ日本の伝統の技術を生かして作った物しか、身に付けない。私は彼のこと

を、「動く和式ショールーム」だと言う。

 この日、私が『夢甲斐塾』の塾長を退任するに当たり、牛革ベルトをプレゼン

トしてくれた。「一度触ってください」と言うから、もらったベルトを触ってみ

た。柔らかくて弾力性に富んでいる。彼は自分の着用していたベルトを外し、私

の目の前に差し出した。私がもらったベルトと、まったく同じ物である。「比べ

てみてください」と言う。なるほど彼が使ってきた七年の年季が、ベルトをより

しなやかにしている。第一、くたびれ感がない。「穴を見てください」と言う。

ベルトは使ううちに、よく使う穴から摩耗するのに対して、新品と変わらない。

「これが日本の皮のなめし技術です」と言う。普通は九割、化学薬品を使ってな

めすのに対して、日本の伝統的ななめしは百パーセント、タンニンを使う。その

差だ。また、ベルトを垂らして見せた。「普通のベルトはまっすぐです。このベ

ルトは、緩やかにカーブしています。人間の体の曲線に合わせてあります」との

ことだ。

 次に保坂君は、輪島塗の茶碗を目の前に差し出した。「こちらは新品です。そ

してこちら側が家で毎日使っているものです。比べてください」と言う。なるほ

ど使っている方が光沢があり、輝いている。日本産の伝統的な技術が生きる物は、

すべて、使ううちに磨きがかかり、光り輝くのが特徴です」と言う。まさに、現

物を示して見せてくれた。

 保坂君は、甲府市内で、「日本の伝統と美 ほさか」を経営している。日常生

活に関するあらゆるものについて、日本の伝統技術が生きる物を全国各地から集

めて販売している。「足るを知らないものを買うから、物ばかり増えるのです。

足るものを買えば、それに満足して物は増えません」と、保坂君は持論を披瀝す

る。お買い得などと言って安物あさりをしているから、結局、使わない物ばかり

が家の中に増えるというわけだ。私もいささか耳が痛い。足るを知るとは、満足

できる本物だ。

 「日本の人達の多くは、メイドインジャパンにこんなにいい物があることをあ

まりご存知ありません。本物は使うほど良くなります。だから、飽きがこないの

です。安物は、買った時が一番輝いていて、使うほどにくたびれていきます」と

のこと。保坂君は、日本の伝統的な優れ物をできるだけ多くの人達に知ってもら

って、普及させることが、自分なりにできる日本を救う道だと信じている。私は、

大いに賛意を表し、拍手を送った。     

最後にして最長      

2016.11.04

 早朝の六時半、甲府で常宿としてきた談露館を出た。甲府駅六時四十六分発の

松本行き各駅停車に乗る予定で、駅に向かった。ほとんど車も行き交わない大通

りで、一台のタクシーが止まった。いきなりタクシーの後部のドアーが開いて、

運転手が私の名前を呼ぶ。驚いてタクシーに近付いたら、『夢甲斐塾』の卒業生

である。

 「元気にしている?」と聞く。「おかげさまで元気にやっています」と、明る

い声で答える。「これから伊勢に向かうのだ」と私。「気を付けて」とタクシー

の中から返事があって、「じゃあ」と立ち去った。何気ない早朝の光景である。

しかし、私は、十五年間、『夢甲斐塾』の塾長として山梨通いしたことの喜びを

しみじみと味わった。

 街を歩いていたら、声を掛けてくれるタクシーの運転手がいる。駅に行けば、

そこでラーメン屋さんを営む塾出身者がいる。ホテルの前にある市役所にも、隣

の県庁にも、塾出身者がいる。近くのビルには弁護士事務所を開設している現役

塾生もいる。そのすく傍で歯科医院を開業している出身者もいる。そのことが、

私には大きな喜びである。

 前の日、間もなく塾長を退任するに際し、一つのけじめとして、二時間半にわ

たる講演をした。塾生達は、「最後にして、最長」とうたって人を集めたようだ。

会場にあてられた県立博物館の部屋に、百人を上回る人達が集まっていただいた。

 私としては、過去十五年間、塾生諸君に様々な話をしてきた。しかし、誰にど

の話をしたかは、分からない。そこで、退任するに当たり、一つのけじめとして、

私の思いとするところをすべて話してみたいと思ったのである。いわば、゛総集

編゛である。

 実際に話してみると、二時間半ではとても話しきれない。予定していた三分の

一を話したところで、博物館の閉館時間になってしまい、「続きは改めて」と打

ち切らざるを得なかった。それでも、多くの人達は、まるでその話を初めて聞く

かのような感想を伝えてくれたので、いささか体調の優れない中を頑張って二時

間半の゛ロング講演会゛に挑戦して良かったと思った。

 講演会の後、私を追いかけてきて、「お疲れでしょうから、マッサージをしま

しょう」と、ホテルの部屋に訪ねてくれた出身者もいた。彼は、自ら整体の診療

所を開設している。体が軽くなったところで、塾生の一人が経営する居酒屋に会

場を向い、懇親会である。そこに集まっている塾生諸君の一人一人が、まことに

いとおしく見えた。人生の喜びだ。          

十五周年            

2016.09.12

 魂が高揚して、歓喜に躍った。人生において、かつてない喜びを味わった。山

梨県勝沼町のぶどうの丘で開催された『夢甲斐塾』創設十五周年記念大会は、私

が塾長を退任して、新しい塾長にバトンを渡す゛引継ぎ式゛でもあった。過去十

五年、心血を注いで指導してきた人達の有志百六十人が一堂に会して、労をねぎ

らってくれたのである。

 自分が努力して得た成果よりも、私が育てた人達が、学びに感謝してくれる時、

教えた側がこんなにも幸せな気分になるものかと、心の底から実感した。人を育

てる喜びに勝る喜びはない。至福の時を味わった。

 過去十五年間に『夢甲斐塾』に集った人の数は、三百五十人。この日の参加者

の数は、そのほぼ半分だ。この世を去った人も五人いる。夢甲斐塾設立の思いを

持った山梨県元知事の天野 建さんも、既にこの世にない。実行委員の人達が献

身的に努力して、十年来、まったく縁が遠のいていた出身者も数多く出席してく

れた。

 様々な感謝の趣向が練られていた。入れ代わり立ち代わり、感謝の言葉を送っ

てくれた。その言葉にもありがたく、うれしい思いを抱いたが、それ以上に、私

が教えてきた言葉の数々がみんなの口から出るのを聞いていて、「想いは届いて

いた」と実感した。教えの思いが塾生に届いていたと感じた時、心の底から、゛

教育の満足゛を味わえるのだ。

 来賓として参加していただいた人達の多くは、創設当時のいきさつの詳しいこ

とを知っている。当時、県の商工労働観光部長であった篠原さんは、「知事の強

い想いでこの塾はできました。今は亡き天野元知事が、゛十年続けたら、きっと

山梨の各地、各界に、様々な人材が綺羅星のように輝くことだろう゛と、夢見心

地に話していた姿は忘れられません。塾生は県内で募集し、塾長は全国から募集

する方針で動き出したのです。塾生として門を叩いた人は三十人。選考の結果二

十人を選んで、一期生がスタートしました。ところが、塾長として公募してきた

人は、暗礁に乗り上げました。その時に、ある人が上甲さんを推薦して、結果、

お願いするようになりしました」と私が知らない前事情を紹介された。

 それにしても、天野元知事が、「十年続ければ」と思いを込めたにもかかわら

ず、三年後、知事の交代と共に、「所期の目的を達成したので、事業打ち切り」

と宣告された。私は即座に、「分かりました。ここから先は、自分でやります」

と啖呵を切った。出身者の何人かが、「もしあの時に、夢甲斐塾がなくなってい

たら、この子はこの世に生まれなかったのですね」と言う。『夢甲斐塾』で出会

って、結婚した夫婦の子供のことだ。           

楽会             

2016.08.25

 「あっ、『夢甲斐塾』の酒井君がテレビに出ている」。食事の支度をしている

妻に向かって、私は大きな声を出した。妻も、テレビの前に立つ。「本当、酒井

君だ。このお店は、どこだろう」と、妻も驚く。

 盆休みが明けて一週間、在宅が続く。家にいると、テレビを見る機会も増える。

NHKの昼の番組゛昼どき日本列島゛が、山梨を紹介している。しかも、この日取

り上げているのは、甲府市内の路地裏探訪を楽しもうとする゛甲府ん、路地横町

楽会゛である。゛学会゛ではなく、゛楽会゛としているのは、学術的な研究が目

的ではなく、路地裏の横町を大いに楽しもうではないかというのが目的だ。゛甲

府ん゛は、「こうふん」と読む。山梨県の県庁所在地である甲府と、興奮とをひ

っかけた造語だ。

 私達夫婦は、ほぼ一週間前、甲府市内の路地裏横町探訪を楽しんできたばか

り。゛路地横町楽会゛の楽会員であり、『夢甲斐塾』の塾生でもある酒井大介君

をはじめとする一行が、私達夫婦にすべての路地横町を案内してくれた直後であ

った。

 それにしても、甲府駅から徒歩で十五分ほどの市街地の真ん中には、ビルとビ

ルの間などにたくさんの路地裏がある。その数は二十本以上ある。路地には名前

が付いている。「銀座」、「浅草」、「オリンピック」などと、センスのかけら

もない名前が付けられている。その路地に、多種多様な飲食店が軒を並べている。

どの店も、時代の変化に迎合しない。それぞれが、ひたすら我が道を行くといっ

た一徹な魅力があるのだ。゛路地横町楽会゛は、その魅力に着目したのだ。「何

十年も続いているのは、本物である証拠。外から見たら、いささかくたびれた店

構えも、それはそれで一つの魅力ではないか」と、路地裏の店の魅力の発掘に努

め初めた。その数は、まだ四十人ほどである。しかし、゛隠れ楽会員゛も少なく

ない。

 私達夫婦も、『夢甲斐塾』諸君の案内で、路地裏の店をはしごした。老夫婦が

どっしりと構える鶏料理の店は、昭和三十七年の創業だ。愛想などかけらもない。

しかし、鶏料理にかけては、どこにも負けない味を誇る。ほかの店がすべて廃業

している地下の奥にあるバーは、場末の行き止まりの雰囲気がある。しかし、出

てくる酒は、天下一品だ。

 「トイレへ行きたい」と言って立ち上がると、「鍵を持って行かなければだ

め」と注意される。店の外にあるトイレは、酔っぱらって汚したり、破壊する人

が跡を絶たないので、いつもは鍵を閉めてある。鍵持参でトイレを行くのも、場

末の雰囲気にふさわしい。高度経済成長の時代を舞台裏で支えてきた路地裏の実

力は侮れない。

『夢甲斐塾』諸君へ     

2016.08.19

 ゛末っ子゛。『夢甲斐塾』十五期生である諸君のことを、私は、そんなふうに

呼んでいます。正確に言えば、私が教育責任を負う最後の教え子といった意味で

す。松下政経塾に勤務した時は、十六期生が最後の教え子でした。今でも、十六

期生諸君と会うと、゛末っ子゛に対するいとおしさを感じてしまいます。私にと

って、諸君は、いつまでも忘れられない思い入れの期生となることでしょう。

 前回の塾長例会で、初めて、゛膝突き合わせての懇談会゛を行いました。約二

時間、一人一人の近況を聞きながら、それに対して私が応答することを繰り返し

ました。不思議なもので、一人一人の近況を聞いているうちに、その人の人生に

寄り添っていくような感覚に陥ってしまいます。私は、それこそが、『教育の原

点』であると思ってきました。

 相手に、いつも寄り添うほどの気持ちを根底に持たなければ、本当の教育はで

きないのです。その意味で、塾長として、最後の最後に、私の念願であった゛膝

突き合わせる懇談゛が、諸君との間でできたことを、大変にうれしいと思いまし

た。

 例会の後の、甲府市内中心地の路地裏探訪も、お互いの親近感を深める良い機

会となりました。案内の先頭に立つ酒井君の場違いとも言える生真面目な様子が、

かえって、雰囲気を和らげてくれたようです。酒井君の掲げる小さな案内の旗に

付いて、みんながぞろぞろと歩いたことも、忘れられない思い出です。

 さて、同封お送りしているデイリーメッセージは、一年間の購読料をいただい

てお送りしてきました。その期限が、今回をもって終わりになります。もちろん、

「引き続き購読する」と希望する方は、同封の振込用紙で年間購読料を振り込ん

でいただくと、継続扱いになります。その手続きがないと、今回が最後となりま

す。

 私としては、「縁は永遠なり」の思いから、少なくともデイリーメッセージを

通じて、みなさんとのご縁がこれからも続くことを期待します。デイリーメッ

セージは、間もなく一万日継続の日がきます。できれば、その節目を、みなさん

と共に迎えられれば、私にとっては、これに勝る喜びはありません。「縁を大切

にすれば、運が開ける」。私の信念です。私は、みなさんとの出会いを、一過性

のものではなく、人生の運命とさえ思っています。

 九月は、「十五周年記念大会」です。そして、十一月の例会は、゛全身全霊゛

を注ぎ込んだ長時間講演を行います。最後の最後まで、私は、諸君と本気にお付

き合いさせていただきます。            

百花繚乱          

2016.08.13

 今年は、『青年塾』創設二十年、『夢甲斐塾』創設十五年の節目の年である。

どちらも、私が最初から、塾長としてかかわってきた組織である。そのために、

今まで歩んできた二十年、あるいは十五年の時間が、自らの命を刻んできた期間、

人生そのもののように思える。

 今年の秋は、それぞれに節目の周年行事が計画されている。とりわけ『夢甲斐

塾』は、塾長を退任したので、行事そのものが引き継ぎのセレモニーにもなる。

十五年間、山梨に二カ月に一回通い続けてきただけに、いささか感傷的になる。

しかし、『夢甲斐塾』は、当時、山梨県知事だった天野 建さんの思いから、県

の事業として立ち上げられたものである。その意味からすると、創設以来、私が

塾長であったとしても、やはり、山梨県からの預かりものだ。預かりものである

限りは、いつかの時点で、『お返し』しなければならない。十五周年記念行事は、

見方を変えれば、私が育ててきてお返しする、゛けじめ゛の時ともいえよう。

それに対して、『青年塾』は、私が自ら立ち上げた組織だけに、これからどのよ

うに次の世代に引き継いでいくかは、私自身が決めなければならない問題である。

今回の周年行事は、その意味からすると、過ぎ去った二十年を懐かしく振り返る

というよりは、これから先どのように歩むべきか、その方向を明確に指し示すも

のでなければならない。

これから歩むべき方向は、明確である。私が丹精込めて育ててきた塾出身者が、

今度は自らが主人公となって、学びを実践活動として発展させるとともに、次に

続く人達を育てていく段階に移行するのだ。

特に私が期待するのは、「志実践活動の活発化」である。即ち、『青年塾』出身

者が、それぞれの持ち場において、志高く、百花繚乱、実践の花を咲かせるこ

と」である。言葉を変えれば、「この国は、『青年塾』出身の人達の、未来をひ

らく新しい価値観に基づいた、新しい実践活動によって将来への展望を開いた」

と言われるような、歴史的な役割を果たすことを切に願っている。

『夢甲斐塾』出身者も、『青年塾』出身者も、今や働き盛りの年齢。社会的にも

存分に活躍できる年齢や立場に立つ。まさに、「今やらずして、いつやるのか」

と問われる年代だ。何となく閉塞感の漂う現代日本において、志高く、新しい活

動を展開する人達は待望されている。

既に、その芽は至る所で出つつある。一つ一つの芽について、詳しく内容を聞い

ていると、「そういう活動が日本全体に広がったら、日本は変わるね」と予感さ

せられる。そんな期待を込めた周年行事だ。          

ロック全焼           

2016.08.12

 山梨県北杜市の清里。そこにある゛萌木の村゛のビアーレストランが、八日の

午前三時、全焼したとのニュースは、私にとっては、余りにも衝撃的であった。

その二日前、私は、恒例のフィールドバレエ「シンデレラ」を堪能して、同村内

にあるホテルハットウォールデンに宿泊した。ホテルと隣接しているロックが燃

えたと聞いた時には、とても信じられなかった。バレエの休憩時間、私は、ロッ

クの中のトイレに向かった。そこには私の顔見知りの従業員も多い。忙しく働い

ている彼らに、挨拶の合図を送ったばかりなのだ。あのロックが燃えた。茫然自

失だ。

 地元の新聞記事によると、「鉄骨二階建て地下一階の店舗千三百平方メートル

を全焼した。店舗北側にあるゴミの集積倉庫の燃え方が激しく、北杜署は倉庫か

ら出火したとみて原因を調べている」とある。隣接するホテルの宿泊客も、前夜

のバレエに感動した余韻にひたる中、隣接するレストランの火災にはさぞかし驚

いたことであろう。

 ゛萌木の村゛社長の舩木上次氏は、私にとっては三十年来の友人だ。かつて、

バブルに浮かれていた清里の開発を横目にしつつ、高い゛志゛を掲げて地域開発

した歩みに、私は大いに敬意を表してきた。゛志゛を学ぶために、数え切れない

ほど清里に通い、『青年塾』を始め、『夢甲斐塾』や『若竹塾』の講座も開かせ

てもらった。

 舩木さんの第一歩は、ロックから始まった。街道沿いにあった喫茶店が、創業

の姿だ。やがて、周辺の土地が売りに出されるたびに、「地域を守るため」に、

次々に購入した。それが、長い間、経営を圧迫してきた。しかし、清里の素晴ら

しい雰囲気が大切に残されてきた。

 火災の翌日から二日間、フィールドバレエを敢えて開いたのも、舩木さんの心

意気だ。火災の後始末をしながら、一方で、大勢のお客様を精一杯お迎えする姿

勢に、私は涙が出るほど感動した。どん底にあっても、前を向き懸命に努力する

姿は、多くの観客の心を動かしたようだ。

 今日、舩木さんに電話をした。声は明るかった。「最近、長い苦しみの時を経

て、やっと経営が少し良くなりつつありました。その矢先の火災です。゛うぬぼ

れてはいけない゛と神様に警告されました」と明るく話す。舩木さんは、東日本

大震災の後、何度も被災地でバレエの慰問をした。その経験が生きているとのこ

と。「家ばかりか大切な人の命まで失った被災地の人達を思えば、私達の火災な

ど小さな出来事です。こんなことでくじけていたのでは、被災地の人達に顔向け

できない。世間にはご迷惑を掛けましたが、社員と力を合わせて、再起します」

と言い切った。             

『夢甲斐塾』十五周年     

2016.08.05

「゛心の距離゛は、゛物理的距離゛を超える」。十五年間、ほとんど毎月のよ

うに山梨と大阪を往復してきた今、しみじみと感じる。

大阪から山梨へ、鉄道を利用して来るのには、三つのルートがある。名古屋から

塩尻を経由する中央西線ルート、静岡から富士のすそ野を通る身延ルート、そし

て、新宿から八王子を経由する中央東線ルート。どのルートをたどっても、六時

間はかかる。

 過去十五年間、その六時間を「長い」と感じることは、一度もなかった。行く

時は、゛わくわく゛、帰る時は、゛満足感゛に充たされていた。私にとって、諸

君とかかわってきた十五年間は、゛黄金の日々゛であった。諸君との゛心の距

離゛が近くなればなるほど、六時間の所要時間という゛物理的距離゛を、決して

長いとは思わなくなった。

 山梨は、私にとって「第二の故郷」である。そして、塾生諸君の一人一人

が、゛わが息子゛、゛わが娘゛のようにいとおしい。いかなる財産よりも、人を

残すことは、人生の最高の幸せであると、今、しみじみ実感する。

 亡き天野 建さん(元、知事)から、「世界に雄飛するにふさわしい゛出る杭゛

を育ててほしい」と託されて塾長に就任して十五年。私が、『夢甲斐塾』に込め

てきた思いはただ一つ、「人間一流」を育てることだった。「夢甲斐塾に学んだ

人達は、誰もが人間としては一流だ」と評価されることを常に、私は思い描き、

これからも、夢を見続けていく。

 「人間一流」とは、どんな人を指して言うのか?

 天野さんは、<己のために計らず>と喝破された。私の思いと同じである。私は、

「自己一身の利益を越え、常にみんなの利益を優先して考えられる人」を、゛人

間一流゛と考えてきた。一流と言われる大学を卒業しても、「自分の利益しか考

えられない人」は、゛人間三流゛だ。超一流企業に勤務していても、自分の利益

ばかり考えている人は、゛人間三流゛である。山梨県を、一流の地域にすること

ができるのは、゛人間一流゛と呼ばれる人達である。そして、゛人間一流゛を一

人でも多く育てることは、山梨を゛一流の地域に゛にしていくための、私達に与

えられた使命だ。

 その思いを、私は、『志』の一言に込めてきた。『志』の高い人達の手によっ

て、『志』の高い山梨県を創造する。私の悲願は、次の世代へとしっかりバトン

タッチされたと、確信している。

 私の心は、命ある限り、諸君と共にある。そして私は、諸君とかかわってきた

日々を、わが人生の宝物として、いつまでも大切にしていくことを約束する。長

い間、本当にありがとう。      

『夢甲斐塾』諸君へ

2016.07.21

 猛暑の日々、山梨もまた、暑さの厳しい日々か続いていることでしょう。とり

わけ、盆地である甲府の暑さは、私自身、何度も経験してきました。くれぐれも

ご自愛いただき、元気に過ごしてください。

 と言う私は、この七月、出張の連続の日々を送っています。毎日の新聞には、

総理大臣の日々の行動が詳細に掲載されます。いつもそれを見るたびに、一国の

首相の過密スケジュールに驚かされます。しかし、時々、「終日、公邸」、「終

日、私邸」といったくだりもあります。これは、一日、自宅か首相公邸で過ごし

た日です。今月の私には、「終日、私邸」の日がありません。一ヵ月間、終日在

宅する日が一日もないのです。計画を立てる段階ではあまり意識しなかったので

すが、実際に日々を送ってみると、東奔西走、移動の連続です。

 ちなみに、このメッセージは、札幌から大阪に向かう飛行機の中で、作ってい

ます。一昨日まで新潟で、『青年塾』の講座があり、帰宅した翌日札幌行き。昨

日は、札幌市内で講演して、今日は大阪に帰ります。そして、明日は、『青年

塾』夕張講座のために再び札幌に向かい、それから五日間、北海道に滞在します。

その後も、長野、京都、青森と今月のスケジュールが続いています。

 新潟に出掛ける前、十一日間、三十八人でベトナムに出掛けていました。『夢

甲斐塾』からも、入倉塾頭や小倉氏が参加してくれました。国民の平均年齢が二

十九歳。若さに溢れる、元気な国でした。と同時に、経済成長の足音が間近に聞

こえ、無限の可能性を秘めているようにも見えました。各種の統計の数字を見る

と、日本の五十年前とほぼです。

 五十年前と言えば、私は二十代。ベトナムで結婚する人の平均年齢は、男が二

十六歳、女は二十三歳。私達夫婦の結婚した年齢と全く同じです。平均年収が、

三百ドルから千ドル。三百ドルと言えば、日本円で三万円少々。私が結婚した時

の給料もまた、三万円でした。

 日本の国だけを見ていたら、人口は減る、高齢者は増えるなど、先細り感は否

めません。しかし、ひとたびアジアの国々に目を向けたら、無限の可能性を実感

します。内向きのいじけた気持ちでは、力が湧いてきません。みなさんには、ぜ

ひ、目を世界、あるいはアジアに向けていただきたい。そこには、あなたの力を

必要とする場面もまた無限にあります。

 舞台はアジア。私達は、自らの殻に閉じこもるのではなく、アジアの発展のた

めに尽くす、そんな『志』を持つなら、力が湧いてくることでしょう。山梨の向

こうにアジアを見よう。そして世界を。 

『夢甲斐塾』十六期生へ  

2016.06.16

 創設して十六年目を迎えた『夢甲斐塾』に、十六人の新入塾生諸君を迎えたと

のこと、偶然の数字の一致とは言え、大きな縁を感じ、心からうれしい気がしま

す。

 十六期生からは、新しく塾長に就任した白倉信司さんが、指導に当たってくれ

ます。新しい革袋が、十六期生という新しいお酒を受け入れてくれることになり

ます。その意味からすると、十六年目を迎えたと言え、まったく新しい姿の『夢

甲斐塾』の始まりとも言えるでしょう。

 最初に当たってみなさんにお伝えしておきたいことがあります。それは、諸君

が、『夢甲斐塾』をより良くするために、入塾を許されたということです。もし

仮に、『夢甲斐塾』は良い学びの場だと聞いたから入塾した人がいたとしたら、

それは違います。良い学びの場と思って入ってきた人は、「思ったほどではなか

った」とか、「期待外れだ」とか、「私の思いとは違う」といった冷めた見方を

しがちです。しかし、『夢甲斐塾』をより良くするために入塾したと考える人に

は、失望がありません。

 それどころか、『夢甲斐塾』の現状が、自分の思いとかけ離れていればいるほ

ど、現状が悪ければ悪いほど、「だからこそ、私の果たすべき役割は大きい」と

の考え方ができるのです。

 『夢甲斐塾』の現状が悪いと言っているのではありません。ものの考え方を伝

えておきたいのです。会社に就職する時でも、「良い会社だから入った」と言う

人は、しばしば、「思ったほどではなかった」と失望して辞めていきます。会社

に就職するのは、「その会社をより良くするために入った」と考える人は、失望

しません。それどころか、会社の現状が悪ければ悪いほど、「私のやるべきこと

は多い」とかえって張り切るはずです。

 ゛新しい革袋に新しいお酒゛が入り、夢甲斐塾は、今、力強く新しい時代を創

造していく時を迎えました。白倉新塾長は、甲府市に在住です。大阪から通って

いた私にはできなかった、地域に密着したきめ細かい実践活動を多角的に進めて

くれるでしょう。

 地域に密着して、地域のために惜しげもなく力を発揮することが、『夢甲斐

塾』の塾生諸君の使命です。「あの時代、山梨県に『夢甲斐塾』という、志高い

集団が存在したからこそ、山梨県は未来に向けて大きな可能性を持つことができ

た」、そんな風に言われるような歴史的な役割を力強く果たされることを、心か

ら期待します。夢甲斐塾 前塾長 上甲 晃

 (この原稿は、『夢甲斐塾』十六期生を迎えた入塾式に宛てた私からのメッ

セージです) 

 

『夢甲斐塾』諸君への手紙  

2016.06.13

 しばらく、ご無沙汰しています。みなさん、お変わりなく、お元気でお過ごし

でしょうか。

 私は、相変わらず、歳不相応に忙しく、東奔西走の日々です。「いつまで仕事

をするつもりですか」と、首をかしげながら、聞く人もいます。しかし、本人に

は、「仕事をしている」といった感覚は、まったくありません。だから、休みの

日の感覚もないのです。

 「魂の喜ぶことをする」。それが、私の生きる指針です。即ち、「生きていて

よかった」としみじみ感じられることを選んでしようとしています。例えば、

『夢甲斐塾』の例会でも、私には義務感など全くありません。塾生諸君に、いさ

さかでも゛生きる勇気と活力゛を与えられればと思っていますから、「出掛ける

時は勇んで、そして帰る時には満足して」いるのです。

 とは言え、塾長として、諸君に゛生きる勇気と活力゛を与える役割は、間もな

く終わろうとしています。十五期生諸君の出発式までは、私が責任をもって、諸

君と全力でお付き合いします。『夢甲斐塾』十五年の仕上げにふさわしく、どう

ぞ、できる限り全員が講座に参加して、顔を見せてください。゛縁は、運の始ま

り゛です。せっかく、゛夢甲斐塾゛を通じて結んだ諸君との縁が、このまま切れ

てしまったのでは残念です。

 最近、私は、「資金力より、人脈力」と、しばしば言います。人生は、勝負所

において、お金の力よりも、どんな人と肝胆相照らし、気心を通じているかとい

う、゛人の縁゛、すなわち、゛人脈力゛がものを言います。事業を始める時でも、

資本力よりも人脈力のほうが大切です。゛資本力゛は、すぐに尽きてしまいま

す。゛人脈力゛は、尽きることがありません。それどころか、苦しい時ほど、お

金よりも、人の助けが必要になるのです。

 『夢甲斐塾』は、見方を変えれば、諸君の゛人脈力゛を豊かにするための場で

もあります。多種多様な人たちと、゛同志性゛をもって結ばれることは、何物に

も代えがたい財産になることでしょう。しばらく、『夢甲斐塾』から遠ざかって

いる人、『夢甲斐塾』とは縁が切れかかっている人もまた、「このままではもっ

たいない」と思い直して、勇気をもって、次の例会にお出ましください。私は、

心待ちしています。

 十五年間、山梨に通い続けて、私には本当にたくさんの同志ができました。そ

れは、『夢甲斐塾』の塾生諸君であります。同志が増えるほどに、山梨に対する

愛着が増してきます。人に対する愛着があるからこそ、地域のことが好きになる

のです。八月の例会で、十五期生諸君のすべての人達が顔を合わせることを、私

は願い続けています。       

甲州小梅           

2016.05.14

 カリカリとした小梅は、一口で食べられる。山梨県は、小梅の産地としては、

全国的に名高い。南アルプスの山々から流れる清水が、小梅を加工するうえで最

適なのだ。夏の炎天下、三日三晩、天日干しする様子は、甲州の夏の風物詩にも

なっている。

南アルプス市で創業百十年の長谷川醸造株式会社は、戦後、培った味噌や醤油

の醸造技術を生かし、小梅の加工販売に乗り出した。社長の長谷川正一郎氏は、

私が塾長を務める『夢甲斐塾』の出身者だ。

 小梅の生産量は最近、大幅に減少しているらしい。小梅の消費量が大幅に減っ

ていることと、生産者が高齢化していることなど、いくつかの理由が重なったこ

とが、その原因である。

 ご飯に梅干は、昔からつきものだった。梅干には防腐の効果もあるからだ。弁

当箱のご飯の真ん中に梅干がある゛日の丸弁当゛は、私の子供の頃の懐かしい思

い出だ。ごく最近まで、コンビニの弁当のご飯の中には、小梅が必ず埋め込まれ

ていた。ところが、最近、小梅が消えた。ご飯を防腐処理してあるので、敢えて

小梅を入れる必要がなくなったのだ。そしてその上、コンビニ弁当は価格競争が

まことに厳しい。ほんのわずかな費用しかかからない小梅でさえも、出番を立ち

切られてしまった。そのために、全国の小梅の消費量は激減したそうだ。

 「そんなに生産量が激減したら、原材料である小梅の確保に困るのではな

い?」と、長谷川氏に質問した。「ところが、うちは困らないのです」と言う。

自家用の畑でも持っているのかと聞いたら、「持っていません」と言う。なぜ、

小梅の確保に困らないか、それは長谷川醸造が、いつも、他のどこよりも高い価

格で買い取るからだとの説明だ。「いつも一番高い価格で引き取れば、自然に私

の所に小梅が集まってくるのは当然です」と長谷川氏。思わず私は、「偉いね」

と褒めた。

 普通は、どこよりも安く仕入れようと、生産者からの仕入れ値を買い叩く。そ

れに対して、一番高く仕入れることなど、業界の常識からすれば、゛真逆の発

想゛である。しかし、本当に良い材料を仕入れるのであれば、価格が高くなって

しまうのは当然であろう。

 『夢甲斐塾』では、゛出る杭になる人材゛を育てることを目的としている。そ

して今、創設十五年目を迎えた。私は間もなく塾長を退く。そんなタイミングで、

訪れた出身者達が、それぞれに、『志』を持って様々な挑戦をしている様子を知

り、大いに満足した。これならば、心置きなく、塾長職を退任することができ

山梨トレビア

2016.05.13

 「知ることは、好きになることの第一歩」。私が、『夢甲斐塾』でしばしば口
にしてきた言葉である。正確に言えば、「良さを知れば、好きになる。悪さが分
かれば、嫌いになる。良さを知ることは、愛することの始まりだ」と教えてきた。
そして、「分かりやすく言えば、あなたがある女性を好きになったとしよう。好
きになればなるほど、もっと彼女のことを知りたくなるだろう。また、彼女の良
さを知れば知るほど、彼女のことがますます好きになるはずだ」とたとえ話をし
てきた。
 「地域愛は、地域を知るとこミロから始まる」。私が、『夢甲斐塾』の諸君に
何度も訴えてきたことだ。それほど、一般的には、自分の住んでいる地域のこと
を何も知らない。だから、「好きにならなくていい。知る努力をしないさい」と
教えてきたのである。
 その私の話を素直に受け止めてくれた人がいる。『夢甲斐塾』七期生の前田友
和君だ。『夢甲斐塾』に入塾して、私の話を聞いているうちに、山梨のことを何
も知らないことに気が付いた。そこで前田君は、山梨を深く知り、楽しく分かり
やすくみんなに伝えようと、゛山梨トレビア゛と名付けた情報発信を始める決心
をした。
 名付けて、゛山梨トレビア゛。「トレビアって何?」と質問した。「ちょっと
したいい話といった意味です」とのこと。前田君のすごいところは、発信する限
り、一日も欠かさないでおこうと思ったことだ。今回、私が『夢甲斐塾』の例会
に出席した時、友達に限定してフェイスブックで発信してきた回数が千回を越え
たと言うではないか。よくぞ、次から次へと、山梨について材料が尽きないモノ
だと思って、本人に聞いてみた。「継続するうちに、自然に情報が集まるように
なってきました」と言う。
 今回、千号達成を記念に、今までの中から秀作を選んで小冊子にした。私にも
送られてきた。読んでみると、山梨の特徴が色々と分かるのだ。分かるほどに、
「山梨は何かなか良いところだ」と思えるようになるから不思議だ。それと共に、
前田君の話に魅力度が増してきている。山梨の良さを知るにつれて、前田君自身
が魅力度を増しているのだ。
 「山梨トレビア」の文章は短い。しかし、誰もが、「へぇー」とか、「ほう
っ」と感心することばかり。前田君は、これを人生のテーマとして継続したいと
張り切る。人生のテーマを見つけたことは、『志』の第一条件が見つかったこと
になる。最近、「山梨トレビア」は、県下でも徐々に注目され始めて、マスコミ
でも紹介されるようになった。私の一言に反応し、人生が良い方向に変化した塾
生がいることは、うれしい限りだ。

日本人の心を原点に

 

志ネットワーク

代表 上甲 晃

「これからどうなるのだろうか」。未来に対する不安は、今までも、これからも変わらない。しかし、「明日どうなるか」を心配する暇があれば、「今までどうであったか」、「今、どうあるべきか」を学び、考える方がいい。なぜならば、“人間の本質”は変わらないからだ。千年前、二千年前も、今も、千年後も、二千年後も、“人間の本質”は、何も変わらない。だから、「今までどうであったか」を探求して行けば、おのずと、「これからどうすべきか」は見えてくるのである。歴史を学ぶことの意義は、そこにある。 私は、今、一つの確信を持っている。「日本のリーダーは、日本人の伝統に深く内面化している、“日本人の心”を学ぶべきである」と。日本のリーダーが、日本以外のリーダーのことを学んでも、本当のあり方の答を得ることはできない。“グローバル・スタンダード”などといった言葉に、惑わされてはいけない。日本人の伝統の心を捨てることが、経営の改革などとは、とんでもない思い違いである。

 私がなぜ、日本人の“伝統の心”を重視するようになったか。それは、世界で唯一、天皇制を基本とする国が二千年間も続いてきたからである。世界には、絶対的な権力者が数多く出た。しかし、その権力者が支配した国で、今なお健在な国はどこにもない。栄枯盛衰、絶頂を極めた時もあったが、最後は滅びてしまっている。国家も、企業も、“永続”が最大の課題である。永続の秘密は、日本の歴史にあるのだ。

古事記の国譲りのくだりに、日本の国の統治の基本は、「権力を持ってわがものにする“うしはく”の統治ではなく、慈愛をもって人々を幸せにする“しらす”の統治」であると記されている。日本人は、リーダーとは、「慈愛をもって、人々を幸せにする人」としてきた。大仏を建立した聖武天皇は、「一木一草に至るまで幸せな状態を実現すること」を自らの使命とした。聖徳太子は、世界で最初の憲法を制定する時、その第一条に、「和をもって貴しとする」と、国としてのあり方を示した。

共通しているのは、私利私欲の上に立つ『野心』の統治ではなく、慈愛の上に立つ『志』の統治だ。これこそ、日本の伝統的な統治の考え方である。また、その考え方を貫いてきたからこそ、世界で唯一、日本が今日まで一つの国として連綿として続いてきたのである。継続の秘密は、まさに、「慈愛をもってみんなを幸せにする心」である。

日本の経営者は、慈愛の心をもって、みんなを幸せにする“日本の伝統の心”を腹の底にすえるべきである。そうすれば、永続する。

ボクサー魂           

2016.05.10

 市村 智君は、元ボクサーである。十九歳の時には、ストロー級、ライトフラ
イ級、フライ級で、日本一に輝いたこともある。オリンピック出場をめざして、
バルセロナで最後の練習に励んでいた時、父親の病状が悪いので、少しの間だけ
でも帰国してくれないかと連絡が入った。市村君は、急遽、帰国した。父親の病
状は、思った以上に悪かった。バルセロナに帰るどころではない。念願だった、
それが結果的には、プロボクサーになる夢を捨てて、家業である自動車修理業の
世界に入ることになった。
 自動車修理の技術などとは無縁の世界に生きてきたために、突然、父親の手伝
いなどできるはずがない。しかし、父親一人でやってきた仕事である。預かって
いる車を修理しなければならない。ポラロイドカメラで修理個所の写真を撮り、
病院で父親に修理の方法を教えてもらって、寝る時間も惜しんで仕事をした。
 「本当にボロボロになるほど仕事をした」と、父親の家業を継いだころの辛か
った思い出を語る。「深夜に腹の足しになるものを買いに行った時、余りにもみ
すぼらしい恰好をしていたのでしょう。店員が釣銭を投げ捨てるようにした。そ
れが余りにもむなしく思えて、何とかこの状態から抜け出したいと、がむしゃら
に頑張った」と言う。
 やがて技能の腕も上がってきたので、競技大会に出場した。「九時から五時ま
での定時だけ仕事をしている他の連中に負けたのでは、寝る時間も惜しんで働い
ている俺の人生は何だと思いました」。そのハングリー精神のおかげで、技能大
会の一位に輝いた。一緒に挑んだ同僚もまた、別の部門で、一位に輝いた。ボク
シングで鍛えた゛なにくその精神゛は、仕事でいかんなく発揮されたのである。
 「ボクシングを通じて、折れない心をはぐくんできた」と市村君は言う。相手
の強打を受けた時も、「ここで諦めてたまるものか」と歯をくいしばって、立ち
上がった。ある時、ボクシングで判定負けした。コーチが悔しさに号泣した。そ
の涙にぐっとくるものがあった。今度は、うれし涙を流させてやると思って頑張
った。市村君は、そんな経験を通じて、人の期待に応える心を養ってきたのであ
る。
 今、市村君は、自動車修理業の地位を飛躍的に高めたいと思っている。「人生
懸けて、この仕事をやりがいのある、素晴らしい仕事にしたい。そして、社会的
な評価を高めたい」。そんな市村君の思いがそのまま、新工場となって誕生した。
近所の同業者は、「生意気だ」と、相手にしてくれない。しかし、そんなことに
心は折れない。            

業界革命         

2016.05.09

 「ここは、何屋さん?」と、私は作業場に足を踏み入れて、思わず聞き直して
しまった。玄関でスリッパに履き替えて、案内された作業場には、ピカピカに磨
き抜かれた車が整然と並んでいる。新車販売のショールームにも見えるので、改
めて、聞き直したのである。「自動車の板金・修理業です」と、答が返ってきた。
 思わず、「嘘」と叫んでしまった。私の中にある自動車の修理工場と言えば、
傷付いた車が、生々しい傷跡を見せながら並んでいる。中には埃まみれのままで
放置されている車もある。作業している人は、つなぎの服で油まみれだ。冬は冷
たい外の風がそのまま作業場に吹き込んでくる。夏は扇風機が熱い空気を送り込
む。そうした先入観が打ち破られて、私も一瞬、ドギマギするような混乱に陥っ
た。
 工場の一角は、作業場を見学する通路になっている。まるで、ハイテク工場の
見学通路のようである。作業場に入る時も、上履きのままだ。ピカピカに磨かれ
た床に車が並んでいる。新車のショールームでも、たいていの床は、靴のままで
歩ける。ここは、修理工場なのに、上履きでなければ歩けない。並んでいる車の
タイヤを見た。すべて、ちりや埃ひとつ付いていない。走り出す前の新車のタイ
ヤのようだ。ここでは、修理する車は、例外なく、作業場に運び込む前に、きれ
いに洗車する。私が最初、ピカピカの新車ではないかと思った車は、すべて、修
理しなければならないのである。
 山梨県南アルプス市にある株式会社イチムラボディーショップの新しく完成し
た本社ビルは、日本一美しい自動車修理工場でもある。社長の市村 智氏は、
『夢甲斐塾』の出身者だ。「お客様に安心して修理を預けていただける工場。そ
して、働いている社員が、是非とも家族にも見てほしいと誇りに思える職場を作
りたい、そんな市村氏の『志』が、業界の常識を破った美しい工場を生み出した
のである。
 かつて、市村氏は、「ここの工場で直るの?」とお客様に不信感を持って尋ね
られた時の悔しさが忘れられない。それほど、みすぼらしい工場だったのだ。
「この工場だったら大丈夫だ」とお客様に安心して預けてもらえる工場を作りた
い、そんな思いを、ずっと胸に秘めてきた。また、若い修理工が集まらないと言
われるのは、家族にも見せられないような職場環境の中で、人に見羅られないよ
うな姿で働いているからではないかとみ考えた。そんなすべてのイメージを払拭
して、輝くような夢のある工場を作りたい。市村氏の『志』の新工場だった。

『夢甲斐塾』諸君へ      

2016.04.19

 奈良の大仏さんの存在は知っていても、みなさんは、見る機会はないでしょう。
「見る」といった表現は、適切ではありませんね。正しくは、「拝観」でしょう
か。大仏さんは、その名のごとく、「大きな仏」さんです。
 私は、最近、東大寺の「大仏」に、いささか入れ込んでいます。今年は既に、
二回、東大寺に出掛けました。二月堂でのお水取り、そして先週末の『青年塾』
関西クラスの゛大和講座゛の折です。行くたびに、背筋の伸びる思いがするのは、
日本人の『志』の原型・原点、「起源」を見るような、感動を覚えるからでしょ
う。
 私は、大阪に住んでいますから、お隣の奈良にはしばしば出かけました。また、
奈良に住んだこともあります。だから、奈良公園、東大寺を何度も巡っていまし
た。しかし、「大仏は大きい」という以上の印象はなかった気がします。ところ
が、七十歳を過ぎて、大仏さんが建立された思いを知るうちに、「目からうろこ
の落ちる思い」をするようになりました。
 大仏さんを建立したのは、聖武天皇です。どうして、聖武天皇は大仏さんを建
立したのか。私は長い間、天皇として、富と権力を持っていたからだと思ってい
ました。しかし、それはまったくの間違いだったのです。世界の国々の絶対的な
権力者たちが、自らの力に任せて造った巨大建造物と聖武天皇の建立された大仏
とは、根本的に思いが違います。 
 聖武天皇の時代、奈良の都は、干ばつ、飢饉、大地震、大凶作などが相次ぎ、
国民は、飢えに、病に、あえいでいました。その上、自らの子供を幼くしてなく
してしまいました。内乱もありました。聖武天皇は、「責め(原因と責任)は、
すべて予一人にあり」と思い、深い悩みと悲しみの中にありました。そこから、
華厳経の教えに導かれて、「動植物、ことごとく華。この世に存在するすべては、
かけがえのない命を生きている。一木一草に至るまで幸せな世界を造りたい」、
そんな大きな思いを込めて、大仏を建立したのです。聖武天皇の『志』が、大仏
の『志』なのです。
 さらに私が感動したのは、「私の富と力をもってすれば、一人でも大仏を造る
ことはできる。しかし、それでは、大仏はできても、魂が入らない」と、「一本
の枝でもいい、一握りの土でもいい。みんなが力を合わせて造りたい」と、方針
を示されました。当時、五百万人ほどと言われた日本の人口の半分以上の人が、
大仏さんの建立にかかわったのです。私は、その考え方にも、大きな啓示を受け
ました。と同時に、私達が物事を進める時の、きわめて大切な指針を教えられた
ように思いました。一度、大仏さんを拝観しませんか。私が案内します。   

膝を突き合わせて       

2016.03.19

 一泊二日の三月例会は、初日の早朝から、二日目の夜遅くまで、二日間をフル
に使った、まことに内容の濃いものでした。しかも、研修時間が長丁場でしたか
ら、参加した諸君は、かなり疲れたことでしょう。
私は、かねてから、「十五期生諸君ときちんと向き合う機会にしたい」と思って
いましたので、前泊し後泊してほしいという事前の申し出を快く了解しました。
二晩泊まりで、十五期生諸君と話し合うために、並々ならぬ決意で出掛けて行く
つもりでした。ところが、直前に送られてきたスケジュールを見ると、私と塾生
諸君が話し合う時間はかなり制約されていて、ほとんどは、防災に関しての学ぶ
を深めるものでした。
 東日本大震災の起きた翌日の例会ですから、防災について実践的に学ぶことは、
それなりに大変に意義のあることです。NPO法人の講師は、長時間にわたって、
熱心に指導してくれました。むしろ、参加者の少ないことが、講師に申し訳ない
と思いました。
 ただ、塾生諸君と泊まりがけで話し合うと考えた私の当初の思いとは大きくず
れていました。そして、塾生諸君と膝を突き合わせて徹底して話し合う時間は、
三時間ほどしか取れませんでした。それは、今後に延期されたと思ってください。
もう一度、仕切り直して、諸君と徹底して、人生を、地域を、仕事を、家庭を、
そして日本や世界を話し合いましょう。そんな機会を是非とも作っていただきた
いと思います。
 一泊例会の最後に、入倉塾頭が、「塾長に話をしていただくのも、残り五回で
す。是非とも、残された機会、出来る限り多くの塾生諸君に参加してもらい、十
五期生として素晴らしい仕上げをしようではありませんか」と呼び掛けてくれた。
私はその時、「十五年通った山梨で、塾長として話すのは、後五回しかないの
か」と思うと、いささか感傷的になりました。
 十五期生諸君、残り五回のチャンスにかけようではありませんか。今回に限ら
ず、塾生諸君の例会への出席率の低調なことが、大変、気になっています。「仕
事が忙しい」といった理由もあるでしょうが、足が遠のくと参加しずらいといっ
た心理も働きます。ここは一番、十五期生全員があらゆる心の抵抗を捨て、「人
生の縁、これからの五回は、みんな揃って出掛けてみよう」といった機運が上が
ってくることを心から期待します。
 繰り返しになります。私の人生において、『夢甲斐塾』で塾生諸君を直接指導
するのは、諸君が最後です。諸君の間でよく話し合ってもらい、塾長である私と
の縁を深める計画を立ててください。私は、いつでも、どこでも、何時間でも、
諸君との話し合いに付き合います。(9025号)              

 

夢甲斐塾』諸君へ

2016.03.02

寒さの冬も、ようやく終わりに近付きました。厳しい寒さの日にも、ふと春の
訪れを知る今日この頃、諸君はいかがお過ごしですか?私は、二月はとりわけ忙
しく、北海道から九州まで、駆け巡っていました。三月には、例会もあり、諸君
にお目にかかれること、大変楽しみにしています。
 十三期生、十四期生、十五期生の三期生が、同時に現役として学んでいた日々
が過ぎ去り、今は十五期生諸君だけが現役として学ぶことになりました。三つの
期生が一緒に学んでいた時には、十五期生諸君と膝を突き合わせることがままな
らず、随分、申し訳なかったと思っています。これからは、諸君としっかり向か
い合う日々です。
 繰り返しになりますが、諸君は、塾長としての私にとって最後の期生、゛末っ
子゛であります。私としても、悔いのないように、諸君に全力で向かい合ってい
きたいと思っています。どうか、諸君もまた、この一年を人生のかけがえのない
時と考えていただき、可能な限り、例会に参加することを心掛けていただきたい
と思います。
 最近、若い人達に、「自分の事で悩むな」としばしば言っています。自分の事
で悩んでいると、考え方はどんどん行き詰ってしまいます。そしてしまいには、
自らを見失ってしまうことさえあります。日本の自殺率が高いのも、余りにも自
分の事で悩む人が多いからではないでしょうか。
 悩むのなら、「他人の事で悩め」と私は言います。「私はどうすればいいの
か」と悩むと、どんどんアリ地獄のような深みに入ってしまいます。自分の事で
悩むことは、自分の損得計算に悩んでいるのと同じです。人生二つのことを同時
に選ぶことができないのですから、悩んでも永遠に答は得られません。ところが、
「他人の事で悩む」ことには、答があります。「あの人のことをどうして上げた
らいいだろうか」と案じる気持ちは、思いやりの心をはぐくみ、『志』を育てて
いくことにつながるのです。
 だから、「自分の行く末を悩む暇があれば、山梨の行く末を悩め」と、私は言
います。「これから私はどうなるのでしょうか」と悩んでいたら、精神的に混迷
を深めるでしょう。「これからの山梨をどうすればいいのか」と本気で悩めば、
「私は何をすべきか」の答、即ち、自分の行く末はおのずと明確に浮かび上がっ
てきます。それこそが、『夢甲斐塾』の志であり、諸君の志でなければならない
のであります。
 近々の例会では、そんなことも含めて、じっくりと諸君と話し合えることが楽
しみです。どうぞ、一人でも多くの十五期生諸君が、参加してくれることを心か
ら祈っています。

『夢甲斐塾』塾生諸君へ

2016.01.12

新年を迎えて、まずもって、「おめでとうございます」。そして、今年も、ど
うぞよろしくお願いします。
 昨年末、十五期生のリーダーと、清里でご一緒しました。帰りの電車では、清
里から小淵沢まで、色々とお話しさせていただきました。また、帰宅すると、
リーダーから長文の手紙をいただいておりました。いずれも、十五期生のリー
ダーとして、何とか実のある学びをしたい、十五期生諸君にさらに積極的に『夢
甲斐塾』にかかわってほしい、切々とした気持ちが伝わり、私もまた、身の引き
締まる思いをしました。
 リーダーの指摘にあったように、昨年の『夢甲斐塾』は、三つの期生が同時に
学ぶ、変則の形で推移しました。それは、期生を越えたつながりを結んでいく上
で、今までとは異なる意味がありました。しかし、十五期生諸君と、私との関係
を取ると、必ずしも十分なものではありませんでした。私が諸君に語り掛ける機
会も少なかったし、諸君の声に耳を傾ける機会も少なかったように思います。
 今回、私は、『夢甲斐塾』の塾長を、十五期生諸君に出発をもって退任するこ
とを発表しました。言葉を変えるならば、諸君は私にとって、直接指導する最後
の塾生、家庭で言えば゛末っ子゛です。そこで、一つの決意を固めました。゛有
終の美゛を飾りたい気持ちも強くあります。
 今後、諸君との意思の疎通を図る機会をしっかりと持つことを約束します。例
会では、私も、じっくり時間を掛けて話をさせていただきます。また諸君一人一
人の様子についても耳を傾け、語り合いたいと思います。例会の進め方について
も、根本的に考え直してみてください。
 『夢甲斐塾』は、単なる親睦の集いをする場ではありません。お互いが、自ら
の生き方を厳しく見つめ直すことを通じて、「志高く生きる」道を探求していく
ことを目的としています。その意味では、諸君と私の徹底した談義こそが、学び
の生命線、魂の原点であります。私は、今後、そのことに最大限の力を注ぐこと
を、十五期生諸君に約束します。まさに、私にとっての゛有終の美゛です。
 最近、私は、「人が生きていく上での基本原則」について大変関心があります。
人は、人生において何を一番大切にするのかという、まさに根本精神を立てない
ままに、いかなる方法論を追い求めても、努力は空回りするばかりです。人は、
どういう時に、幸せを心の底から感じられるのか?それは、「人に喜ばれた時」
以外にないのです。そんなことも改めて、膝を突き合わせて話し合いましょう。
楽しみにしています。

 

『夢甲斐塾』新塾長へ 

2015.12.17

 山梨県が、次代を担う若い人を育てるために『夢甲斐塾』を立ち上げてから、
十五年になります。白倉さん、あなたが、晴れの一期生として入塾された時のこ
とは忘れません。経営コンサルタントであると自己紹介されました。しかし、私
には、生き馬の目を抜くようなビジネスの社会で、あなたが快刀乱麻のごとく凄
腕を発揮するような人には見えませんでした。静かなたたずまい、それでいて強
い意志を持って日本の将来のために役立つ仕事をしたいと言う『志』に、私自身、
惹かれるものがありました。
 二十一世紀の山梨をより良くしたいと願う当時の県知事・天野 建さんの思い
を引き受けた私は、何回、大阪から山梨まで六時間掛けて通ったことでしょう。
そのことを、少しも苦痛に思うことはありませんでした。むしろ、『夢甲斐塾』
の門を叩く若者達と次々に縁が生まれてくることが、非常に大きな喜びであり、
胸躍らせて、山梨通いを続けてきたのです。
 かつて私が仕えた松下幸之助は、「素人でもええのや。大事なことは、その仕
事に懸ける熱心さ。それさえ誰にも負けなければ、必ず道は開ける」と教えられ
ました。今日まで、私は、『夢甲斐塾』の塾長である限りは、誰よりもその役割
に熱心であろうと心掛けてきたことは事実です。
 しかし、時は確実に過ぎ、五十歳代で塾長を引き受けた私も、来年は、後期高
齢者の仲間入りです。自らの熱心さを理由に、いつまでも塾長の立場に留まって
いることは、かえって弊害にもなりかねません。
 幸い、一期生の白倉信司さん、あなたが、第二代目の塾長を引き受けていただ
いたこと、大変うれしく思っています。あなたの真摯な生き方と、自らの精神的
な向上のために努力を惜しまない姿勢を、私は高く評価しています。やはり、塾
長に一番求められるのは、゛精神的なバックボーン゛であり、哲学・精神です。
時代に迎合するような生き方ではなく、時代の変化を超越するような哲学・精神
こそが、いかなる時代においても、根本です。私は、新塾長のあなたが、『夢甲
斐塾』に、さらなる深遠で、強い哲学・精神を持ち込んでくれることを大いに期
待しています。
 「なんのために」。人生は、このまことに簡単な質問に対する答えを、常に求
められます。「何のために生きるのですか?」「何のために学ぶのですか?」
「何のために働くのですか?」「何のために夢甲斐塾で学ぶのですか?」。それ
即ち、精神であり、理念・哲学です。
 私は、『夢甲斐塾』の塾生は、゛人間一流゛である。彼等なら、この山梨を何
とかしてくれる。県民から、そんな期待が自然のうちに寄せられる人を育てよう
と努力してきました。後は、任せました。      

 

『夢甲斐塾』諸君への手紙

2015.12.08

 ゛夢甲斐フェスタ゛、ご苦労様でした。目標通り、八十人の参加があったと、
幹事役の山崎君が教えてくれました。三百人を上回る出身者全員に対しては、ほ
ぼ二十五パーセントの参加率ですから、必ずしも喜べる数字ではないかもしれま
せん。しかし、すべての塾生と出身者に、熱心に働き掛けた人達の、並大抵では
ない苦労を思うと、私には、「新しい希望のうごめき」のように思われました。
 中には、十年ぶり以上だと言う人もいました。「脱会希望」と返事を出してき
た人が、ひょっこりと現れて、みんなを驚かせ、喜ばせることもありました。
「ここ数年、籠っていました」と言う人も、元気な顔を見せてくれました。塾出
身者の志の実践発表では、それぞれの足場を掘り下げて生きる人達の真摯な様子
が伝わってきて、私も大いに感動しました。
 この日、私は、自らの退任と、新しい塾長と塾頭の人事を発表しました。塾長
には、一期生の白倉信司氏、塾頭には、八期生の現塾頭である入倉 要氏を指名
しました。私は、「十五期生の出発式までは、私が塾長として責任を果たす。新
塾長の白倉氏には、第十六期生の入塾式から、塾長としての責任を果たしていた
だく」と言いました。即ち、十五期生諸君については、出発式までは私が指導責
任を果たします。
 県の事業であった『夢甲斐塾』の初代塾長に就任してから、間もなく十四年に
なります。この間、ほぼ二カ月に一度は、山梨に来ました。私の家から山梨は、
塩尻から中央線を経由しても、新宿から中央線を経由しても、静岡から身延線を
経由しても、六時間は掛かります。往復した回数は、百回をはるかに超えること
でしょう。しかし、その間、私は一度も、「つらいな。しんどいな」と感じたこ
とはありません。いつも、胸を躍らせて山梨入りし、満ち足りた気持ちで山梨を
後にしました。
 それは山梨が風光明媚で、食べる物がおいしいからではありません。塾生諸君
が、素直に私の話に耳を傾けて、真剣に自らの生き方の中に取り入れようとして
くれたからです。゛夢甲斐フェスタ゛で、参加者全員が話してくれた中で、私の
言葉を生きる糧にしたと言ってくれた塾生が、どれほどいたことか。それぞれが、
自らの生きる指針として紹介してくれた言葉を、私自身、忘れてしまっているこ
ともありました。
 そんな中で、ある人が、「塾長が、゛かつて売った電子レンジは、十年以上経
って、今やほとんど廃棄物として使われなくなった。それどころか、もはや存在
しないかもしれない。それに対して、教育は違う。人は、十年以上経てば、さら
に大きく成長していく。教育は素晴らしい仕事だ゛とおっしゃいました。私も教
育の仕事をしていて、同じ思いです」と言ってくれた人がいた。私は、そんなこ
とを言っていたことを思い起こした。と同時に、その瞬間、人を育てる仕事の喜
びが、私の心の中に、改めてこみ上げてくることを実感しました。
 私は、自らが塾長を退任する時には、他の誰か第三者に託するのではなく、塾
出身者の中から選ぶことを心に期していました。また、自分が後を託せるような
人材を残せなければ、恥ずかしいとも思っていました。さらに言えば、初期のこ
ろに入った塾生諸君は、家庭で言えば、゛長男・長女゛です。家にあっても、゛
第一子が、以て範歩示さなければ、後に続く妹や弟に示しがつきません。できれ
ば一期生から塾長にふさわしい人を選ぶことは、私がかなり以前から決めていた
ことです。
 幸い、新塾長に指名した白倉信司氏は、「人間の生き方」について、まことに
真摯であり、熱心な探究者です。私は、塾長を選ぶ時には、何よりも、自ら生き
る指針をしっかりと持つ努力をしている人を基準にしようと思っていました。
「精神無き教育」は、本当の意味で人を育てられないと思ってきたからです。
 なお、塾頭については、現在、既に塾頭として十分に力量を発揮していただい
ている入倉 要氏に、引き続きお願いします。私は、入倉塾頭が、『夢甲斐塾』
に懸ける思いの本気さと、その手腕の確かさ、そして謙虚な姿勢において、高く
評価してきました。この人なら、これからの塾の運営は安心して任せられると思
っています。
「ところで、塾長は、退任したら、もう山梨には来られないのですか?」と、時
には悲しそうな顔で迫ってくれる人もいます。うれしいことです。私は、「来ま
すよ。私にとって、山梨は第二の故郷。十四年間も通い続けて、こんなにもたく
さんの我が子がいる故郷に、来ないわけがないじゃないですか」と答えます。そ
れは、本当の思いでもあります。
 具体的には、年に四回、膝を突き合わせて諸君と話し合う、゛談義゛の機会を
持ちたいと思っています。そこで、私もしっかりと、自らが考えてきたことをみ
なさんにまとまった形で話したいと思っています。みなさんからも、近況や悩み、
問題、生き方などについて意見を出してもらい、みんなで考え合う場づくりです。
参加者は、期生を問いません。一期生から、すべての塾出身者の中で、希望する
人達に参加していだたくことになります。具体的には、来年の夏に開催予定の
『夢甲斐塾』十五周年記念行事の後から始めてみたいとも思っています。
 新しい体制は、「塾に集った私たち自身の手で発展させ、新しい山梨を開いて
いく」ことが目的です。諸君の一層の奮起を期待します。     

夢甲斐フェスタ      

2015.11.11

 山梨県の元知事、天野 建さんから、「山梨県民は、概して、゛出る杭゛、即
ち、突出した存在を好まない傾向にある。しかし、これから世界を舞台に羽ばた
こうかというグローバル化時代、いつまでもそれでは困る。これからは、大い
に゛出る杭゛を育てなければならない。ついては、あなたに力を貸してもらえな
いだろうか」と、山梨とは縁もゆかりもなかった私にお声が掛かったのは、今か
ら十五年前のことである。今は亡き天野さんの遺志こそが、『夢甲斐塾』の原点
である。
 『夢甲斐塾』は、もともと、二十一世紀を展望した、天野さんの高い『志』か
ら始まったのであり、最初は県の事業として運営された。やがて三年が経ち、天
野さんが知事の職を辞された時、「所期の目的は達成したので、『夢甲斐塾』の
事業は、打ち切る」と、県から通告された。
 山梨とは関係のなかった私だから、「そうですか」とそのまま退く道もあった。
しかし、私は、「分かりました。人を育てる仕事は、三年やそこらで完遂できま
せん。これからは、自分達で納得できるまで継続します」と、身のほどを顧みず、
宣言した。山梨とは縁もゆかりもなかったはずの私が、三年間の教育を通じて、
いつの間にか、山梨の未来に対して責任の一端を担っているような気がしたので
ある。
 そして今、『夢甲斐塾』は、創設して十五年目を迎えた。県の手を離れ、自ら
の足で立つという大それた目標に向かって、ひたすら歩んできたのである。今、
十五年の節目に立ち、改めて、私達が何をしてきたのか、そして、これから何を
しようとしているのかを、山梨の方々に報告し、問い掛けることができるまでに
なってきた。今回の゛夢甲斐フェスタ゛に、そんな私達の思いを込めている。是
非、県民のみなさんに、私達の歩んできた道、今歩んでいる道、これから歩もう
としている道を見届けていただきたいと願っている。そして、その『志』におい
て、共鳴・共感していただけるならば、共に活動させていただきたいと切に望ん
でいる。
 過去十五年間に、『夢甲斐塾』に入塾した塾生の数は、三百人を越えた。一人
一人が、自らの足場に立って、山梨を良くするために実践活動を始めた。その火
は、まだまだ小さい。しかし、どんなに小さな火も、やがては大きな火となり、
山梨の未来に希望をもたらす光明になる日がきっと来ると信じている。物事は、
「小さく起こして、大きく育てる」のが基本原則だ。「大きく起こそう」とする
と、どうしても、様々な無理が生じる。『夢甲斐塾』が、いつの日にか、゛山梨
の救い゛となる存在になることを信じて、私達は歩む。 (゛夢甲斐フェスト゛
案内の巻頭言)

『夢甲斐塾』諸君へ

2015.10.24

先月、「毎月、塾生諸君に手紙を送っているものの、諸君が読んでくれている
実感が持てないので、送ることを躊躇している」といった趣旨の手紙を送りまし
た。その手紙もまた、あまり読まれていなかったのではないかと思っています。
返事が来たのは、合計四通でした。そのうちの二通は、諸君の先輩でした。そし
て諸君と同じ現役生からは、二通の返事がきただけでした。それらは、いずれも、
「読んでいます。是非ともこれからも続けてください」と書いてありました。
現役塾生の半分もの人達から返事が来れば、「読んでもらっていないと思ってい
たのは、私の取り越し苦労だったのか。よしこれから張り切って続けよう」と決
心したでしょう。逆に、一通も反応が来なければ、「やっぱりそうか。さっさと
止めよう」と、未練もなく筆を折ったことでしょう。
 二通だけの返事は、まことに悩ましいものです。返事をくれた二人の心情を思
うと、手紙を出さないのは切ない。と言って、今までと同じように全員に送って
いたら、いつまでも、「ほとんど誰も読んでいない手紙を送っているのは、単な
る自己満足ではないか」と疑問を持ったまま推移していくことでしょう。
 思い悩んでいるうちに、時間ばかりがどんどん過ぎて、毎月初めに送っていた
手紙とデイリーメッセージが、とうとう月末にずれ込んでしまいました。そこで、
今回は、もう一度だけ、みなさんに問い掛けてみようと思い直しました。物事の
機運は、双方のエネルギーのキャッチボールから生まれてくるのではないでしょ
うか。どんなにエネルギーを注ぎ込んでも、相手が笊(ざる)であれば、すべて
徒労に終わります。どんなに強く押しても、相手が暖簾(のれん)であれば、風
は通り過ぎるだけです。相手のエネルギーを受け止める。そこから物事は始まる
のではないでしょうか。
 十三期生は、「その出発、まかりならない」と、研修の修了認定を、私から止
められました。私は、それから後の十三期生の成長に注目しました。「何かが変
わるはず」と信じて、見守りました。十三期生は、私の問い掛けに真摯に向かい
合い、様々な葛藤を繰り返しながら、遂に、全員が゛一枚岩゛になるという目標
を見事に達成してくれました。最悪でないかと思われた゛出発延期゛が、最高の
結果をもたらしてくれたのです。
 今回、現役の塾生諸君にも、同じ問題を提起します。「塾長は、毎月、私達に
宛てて手紙を寄こしてくれている。私達は、それを本当に真面目に受け止めてい
るだろうか。目を通さないままに置くのは失礼ではないか」。議論を重ねて、最
高の結果を出していただくことを期待します。          

『夢甲斐塾』諸君へ    

2015.09.08

 猛暑の夏も過ぎ去り、秋雨前線が居座っている日々、その後、お変わりありま
せんか。間もなく、九月の「塾長例会」です。久しぶりにお目にかかれること、
楽しみにしています。本当は、「例会」の時にも、私から一方的に話すだけでは
なく、じっくりとみなさんの話を聞きたいものです。
 さて、毎月、このメッセージをみなさんにお送りしています。二ヶ月に一回の
塾長例会でお目にかかるだけでは、思うように、私の意が通じない、またみなさ
んとの情が通わない。そんなもどかしさから、この手紙を送り始めました。いつ
のころから始めたかは、定かではありません。しかし、かなりの年月が経ったこ
とは間違いありません。
 毎回、今月は何をテーマに書こうかと、数日前から考えます。今回も、何につ
いて書けばいいだろうかと、考えました。しかし、どういうわけか、今回は、
「はたして、この手紙をみんな読んでいるのだろうか」、「私の独り相撲で、誰
も読んでいないのではないか」と考え始めました。そんなことを考えると、ます
ます、テーマが見つけられません。
 この手紙を書き始めてから既に五年以上は経ちます。あるいはもっと前かもし
れません。毎月、郵便で送っています。それに対して、過去に、「読みました」
と言って、何らかの感想、意見、まして反論は、一度もありませんでした。まっ
たくの一方通行でした。私は、そのことをあまり意に介することなく、「反応を
期待して送っているわけではない。自らが必要と思うから出しているだけだ」と、
自分自身に言い聞かせてきました。しかし、それさえも、自己満足にしか過ぎな
いのではないか。本当に、誰も読んでいないのではないかと思い始めました。
 誰も読んでいない手紙を送り続けることは、まさに私の自己満足以外の何もの
でもありません。自己満足のためにやっているのであれば、これからは止めよう
と思いました。
 そこで、まことに申し訳ないのですが、みなさんにとって、この手紙がいささ
かでも、お互いの意思疎通の上で役に立っているのかどうか、お聞かせください。
大して役立っていないのであれば、今回をもって、手紙をお送りするのは止める
ことにします。止めても、デイリーメッセージをお送りしていますから、私が何
を考えているかは知っていただけます。また、少しでも意欲のある方は、「イン
ターネット青年塾」に、日々の私のメッセージをアップしています。それをお読
みいただければ、私の意は十分に通じます。
 この呼びかけにも反応がなければ、それも意思表示だと判断します。  

『夢甲斐塾』諸君へ

2015.08.11

 「山梨は、富士山を始め、美しい山々、豊かな自然、果物王国、そして農産物
に恵まれている素晴らしい地ではあるが、おいしいものを食べさせるレストラ
ン・料理屋、魅力的な宿があまりないよな。もったいない」と、長い間、塾生諸
君を事あるごとに挑発してきました。
 私が挑発すれば、中には、「そんなことはありません。私が案内します」と、
受けて立つ人が出てくると期待していたのが真意です。山梨に通い始めて十五年、
この八月、初めて、「山梨にも、こんなにも魅力的な所があるじゃない」と、私
の思い込みを百八十度ひっくり返してくれる、素晴らしい経験をしました。そし
て、魅力に接すると、今まで以上に山梨に対する愛着が深まったのも事実です。
「良さに気付けば、好きになる」。私が今まで塾生諸君に言い続けてきた言葉を、
そのまま、私自身が実感した次第です。
 まず、八月七日の市川三郷町で行われた゛神明の花火゛です。およそ三十人の
塾生諸君、その家族と共に楽しみました。手の届きそうな距離で上がる二万発の
花火は、芸術性と新機軸への挑戦の連続でした。聞くところによると、市川三郷
町は、武田信玄の時代から江戸時代を通じて、和紙と花火の技術が蓄積している
地とか。「そんなこと、今まで何も知らなかった」と私は不明を大いに恥じると
共に、「近いうちに、是非、『夢甲斐塾』の例会をこの地でやろうよ」と、付近
にいたみんなに呼び掛けました。例会をいつも、甲府市内の公共施設でやってい
る限りは、何年続けても、新しい地域の魅力に対する発見がありません。
 そして次に案内されたのが、ギネスブックで世界一長寿の宿と認定された「慶
雲館」でした。創業千三百年を越えると聞いて、仰天しました。身延から車で一
時間の山の中、山梨の秘境でした。そして、日本の国から失われつつある古き良
き時代の郷愁を味わえました。それ以来、私は各地に出掛けて行くたびに、「山
梨にはすごい宿がある」と、宣伝し続けています。聞く人達も、「行って見た
い」と、目を輝かせます。
 今回の旅に際して、私達夫婦を車で案内してくれた、『夢甲斐塾』二期生の仙
洞田氏に、「近いうちに、『夢甲斐塾』の諸君に、゛私のお気に入り・お勧めの
景勝地、レストラン・料理屋、温泉゛などを、一人十件ずつリストアップしても
らう課題を出してみたらどうだろうか」と提案しました。自らが住む地域の良さ
に気が付けば気が付くほど、「いい所に住んでいるな」と喜びが湧いてきます。
「いい所に住んでいるな」と感じられることは、いい人生の始まりです。是
非、゛山梨魅力゛を見付け合いましょう。

◆上甲 晃塾長からの手紙

平成27年7月10日 縦の繋がりを深めるチャンス
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平成27年6月25日 小さな山梨一
平成27年6月25日 小さな山梨一.pdf
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平成27年5月20日 志実践の花
平成27年5月20日 志実践の花.pdf
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平成27年4月17日 停滞を憎み、変化を好む
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平成27年3月17日 思いは一つ
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平成27年2月25日 先人の努力の中に
平成27年2月25日先人の努力.pdf
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平成27年1月22日 山梨ブランド発掘
平成27年1月22日 山梨ブランド発掘.pdf
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平成26年10月10日 大きな目標があればこそ
大きな目標があればこそ 困難を乗り越えてこそ、本当の一体感
26年10月10日 大きな目標.pdf
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平成26年9月6日 目標があれば、好き嫌いを越えられる!
平成26年9月6日.pdf
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平成26年8月20日 諸君に大同団結する目標があったか!
26年8月20日.pdf
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平成26年7月30日 その出発しばし待たれよ!
26年7月30日 その出発しばし待たれよ!.pdf
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一年間、諸君から学ぶことは多かった 平成26年6月10日
26年6月10日 一年間諸君から学ぶことは多かった.pdf
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便利になったけど、幸せか? 平成26年5月10日
26年5月10日 便利になったけれど、幸せか?.pdf
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教え合い学び合う関係を深める 平成26年3月15日
平成26年3月15日
26年3年15日 教え合い学び合う関係を深める.pdf
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「徹底的に」で会社が変わった
26年2月12日.pdf
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足元を掘り下げる学びの教訓 平成26年1月17日
26年1月17日足元を掘り下げる学びの教訓.pdf
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人生にあいにくの一日はあり得ない 平成25年12月20日
25年12月20日人生にあいにくの一日はあり得ない.pdf
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長州ファイブに学ぶ青年の志 平成25年9月17日
25年9月17日.pdf
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心して通り組めば、すべてが学びの機会 平成25年8月10日
25年8月10日.pdf
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良き出会いの縁は、良き運命を開く 平成25年7月18日
25年7月18日.pdf
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一流の人は、まことに丁寧である 平成25年6月15日
25年6月15日.pdf
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自分を計算に入れなければ,強くなれる 平成25年5月8日
デイリメッセージ夢甲斐塾1305002.pdf
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『青年塾」との初の連携事業スタート 平成25年4月10日
デイリメッセージ夢甲斐塾1304001.pdf
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「根っこをしっかり養う生き方を」平成25年3月15日
塾長手紙H250315根っこをしっかり養う生き方を001.pdf
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「しっかりと生きていこう」平成25年2月20日
塾長手紙H250220しっかりと生きてゆこう001.pdf
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「心の距離が近づいた実感」平成25年1月10日
塾長手紙H250110心の距離が近づいた喜びを実感001.pdf
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◆武藤さんからの手紙

夢甲斐塾1期生 武藤傳太郎さんの志を引き継ぐ 奥様・息子さん
武藤傳太郎さん.pdf
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◆フォトギャラリー

◆郷育フォーラム2012 2012.9.30甲府市総合市民会館

◆11期夢甲斐塾2月塾長例会(小瀬武道館会議室)

◆3月例会<河口湖>

夢甲斐塾公式HP